愛について考える その1
こんにちは。紅掛空です。
久しぶりの投稿です。
少し前に話題になった「嫌われる勇気」「幸せになる勇気」を読みました。
根源となるのは「勇気」そして「愛」であるとありました。
正直、何度も読み返さないと理解するには難しいのですが、大事なものであるというのは理解しました。
読了した後、ふと「愛」について少し考えてみようかと思ったのです。
というのも、私はまだ二十代そこそこですが、前にこんなことを言われたのです。
「好きになる努力をしてよ」
身もふたもない言葉でした。
友としての好意はありましたが、相手は恋人としての好意を求めたが故の言葉だったのだろうと今になって思います。
二度と会いませんが。
そして、ここで本に記載されていた愛についての文を紹介します。
「誰かを愛するということはたんなる激しい感情ではない。それは決意であり、決断であり、約束である」
「愛とは信念の行為であり、わずかな信念しか持っていない人は、わずかにしか愛することができない」
これはエーリッヒ・フロムという方の言葉です。
「愛するということ」という本の著者でもありますので、気になった方は読んでみて下さい。
さて、愛とは一体なんなのでしょうか。
フロムは「愛は技術」だと言います。そしてアドラーは「愛は勇気」だと言います。
共通してあるのは、重要なのは愛される側ではなく、愛する側なのだと。
そして愛すれば幸せになれるという事です。
相手の人に対して愛したとき、やはり誰でも愛してほしいと願います。
私だってそうです。
ところで何故、愛されたいのでしょうか。
不安だから安心したくてでしょうか。
孤独ではないと思いたい為でしょうか。
愛するという行為から逃げたいのでしょうか。
そもそも愛し方が分からないからなのでしょうか。
だから「好きになる努力をしてよ」という言葉が生まれたのでしょうか。
実のところ、相手は結婚していました。
しかし話を聞いていたところ、不倫を正当化しており恋人も数人いるようでした。
それは愛されたいという欲望があったからでしょうか。
愛は決意であり、決断であり、約束であるという言葉は結婚そのものだと思います。
二人で愛を決意し、決断し、幸せになろうと約束するものであるならば、不倫は約束を不当に破った裏切りであり、愛するという行為から逃げたのだという事ではないでしょうか。
フロムの言う技術とは「愛する側」の技術であると考えられます。
またアドラーの「愛は勇気」というように、「愛する為の勇気」が求められるのではないでしょうか。
ひとまず、今回はここまでにします。
考えれば考えるほど頭がパンクしそうですが、考えるのは楽しいですね。
それでは、また。